「雇う」ということの社会的なルールの限度
「労働基準法」という法律があります。それは雇用する側、雇用される側がイーブンな立場にいることを示したものです。すべての企業はこの法律を遵守しているはずです。遵守するべきなのです。
労働基準法には雇用する際に「自立して生活できるレベルの賃金を必ず支払うこと」ということや、「労働条件は雇用側と雇われる側が対等な立場で決めること」など、働く人たちにとっては絶対に会社に対して遵守して欲しいことが規定されています。 その中に「仕事に直接関係しないような項目で恣意的に差別してはいけない」ということなども含まれます。
ただ、これらの「決まり」は「言葉」で定義されたものです。「文章」で記されたものです。「言葉」はさまざまな解釈の仕方があるもので、その解釈が人と人で異なるということは多々あります。その解釈の違いで係争になり、「裁判」として争うことも度々です。言葉として定義されたものを個々のケースに当てはめるのはなかなか難しいものではあります。「法律」というもの自体が、そのような「曖昧さ」に満たされたものであるということです。「言葉というものは誰かが解釈してはじめて成立するものです。法律の専門家とは、これらの言葉をただ知っている、覚えているということだけではなく、その解釈も心得ている人のことを指すのです。そして専門家ではない以上、その法律を細かく参照するなどということは私たちには馴染みがないことなのです。
だから自分が所属しようとしている組織、今所属している組織の上長が「そうだ」と言ってしまえば、そのように判断するしかないということになるでしょう。自分は専門家ではないのだから、そう言われてしまえばそのように捉えるしかないということです。もちろん、収益を出さなければいけないという組織の現実もそこにはあります。
企業にとって利便性を感じる人材というものは、勤勉で、文句を言わず、安い賃金でいつまでも働き続けてくれるような人材ということになるでしょう。そのような人材がたくさんいてくれれば、組織にとって、企業にとってこの上ない幸運です。
「働く」ということは「奉仕をする」ということではないのです。働くということは対価をえて、その分だけの責任を負うということです。責任を負うということは、そういうことです。果たした責任の分だけの対価は得なければいけません。果たしたい責任の分だけ、会社が規定した収入を得る必要があるということです。それが「働く」ということです。自分の能力、自分のキャリアというものは自分で考えるものですし、条件が自分の意に沿わない場合はフィールドを変えるということが必要になるでしょう。
本来仕事とは、雇用とは、ギブアンドテイクの関係です。経営者、上司、部下、さまざまな関係が職場にはあるものですが、それらすべては「利害関係」ということになるでしょう。利害関係であるからこそイーブンなのであって、働く人は決して奴隷にはならないのです。