現代の若い世代は「芯」がない
「時間」というものはすべての物事に対して等しく経過するものです。時間の流れは環境や状況、人の考えや気持ちまでも変えていくものなのです。「時間」の積み重ねによって「今」と未来が繋がっています。時間の積み重ねによって、時代が作られているのです。
世の中にはさまざまな年代の人がいます。さまざまな年代の人が、さまざまなことを考えて生きています。時間の経過とともに、自分が知りたいこと、考えていることも変わるものです。そのような時間の流れには誰も逆らえないもので、1ヶ月間なにかに没頭して、なにかに集中して過ごしていても、なにもせず、なにも考えず、ただダラダラ過ごしていても、与えられる時間、生きなければいけない時間にかわりはないのです。
そしてそのような時間は、生まれた時期が違う人たちのその世代の「差」を埋めることにはならないということです。違う世代として生まれたならば、そのギャップは埋まらないまま、人と人に差を作ることになるのです。毎日誰かが生まれていて、毎日誰かが亡くなっているのです。そのような時間の流れは若い世代どんどん社会に押し上げ、現役世代さらなる経験を与えるのです。
人が感じる「時間の長さ」というものはそれまで生きてきた時間と比較であるということが一説に挙げられています。つまり、長く生きている人、歳を重ねている人ほど、時間の流れを速く感じるものなのです。それは若い世代からすると、「忍耐」という言葉で形容されたり、「悠長」という言葉で掲揚されたりするかもしれません。人が感じる時間というものは人によって違う、自分の持っている感覚すべて正しいわけではないということです。
それを差し引いたとしても、現代の若い世代と壮年世代のギャップには幅の広さを感じます。それまで壮年世代の人が「正義」としてきたことが、若い世代に通用しなくなるということがたびたびあるのです。それは法律ではなく、社会で生きるためのマナーのようなことです。職務遂行能力に関係するようなことではなく、人として生きるための、人として人と折り合いをつけるための、長い時間が培ってきた「経験による知恵」なのですが、それが通用せず、若者特有の「ダルい」などの言葉で一蹴されてしまう局面をしばしば見かけます。
「価値観」が違うのは仕方のないことでしょう。価値観が違えば、共通言語として用いることができない言葉もたくさんあります。世代の差などは簡単には埋まるようなものではないですし、それによって社会が作られてきたこと、世代が変わることで良くなったこともたくさんあるのでしょう。ですが、現代の若い世代はどうも「価値」の基準がそれまでの「大人」とは大きく異なるようです。価値が違うということは、それまでの利害関係も通用しなくなるということです。それまでの利害関係で、協調を取ることが難しくなってしまったということです。それは憂慮すべき事態で、これまでの常識が通用しない時代になってしまったということです。