ブラック業とは

時には無償の奉仕は必要

すべての仕事が割り切れるものであるならば、それほど楽なことはないのです。社会に出ると割り切れないことなどはたくさんあるのです。ただ言われたことだけを行っていればいいというわけにはどうしてもいきません。

割り切れる仕事、たとえばそれは自分の責任だという具合に割り切れることは、むしろ楽なのです。「責任」が、自分が働くべき時間内にすべて済むものであるならば、そんなに楽なことはありません。私たちは日々と努力するものですが、その努力がすべて報われるということなどあり得ないことなのです。パートやアルバイトならいざ知らず、自分の「裁量」で物事を推進しなければいけない立場なのだとしたら、そこには「答え」などはなく、自分の気持ちや考えを「試す」ということも必要なのです。

そのような考えを巡らせるのは「時間」では割り切れないものがあります。一瞬で思い浮かぶこともあれば、どれだけ時間をかけても頭に何も浮かんでこないこともあるでしょう。それでも自分の考えで仕事を進めなければいけないというのが社会人です。たとえ自分のプライベートを削ったとしても、何かの策や打開案を用意する必要がある局面も多々あるものです。さらには仕事というものは「人と人」のつながりです。人と人が関係しあって成立するものですから、そのような人との関係を築くためには時間だけでは割り切れない人との付き合いが必要なこともあるはずなのです。

そのようなことを考えると、ただ勤務時間だけがんばっていればいいというわけではないということです。ただ勤務時間だけがんばって、ただ与えられた仕事だけをがんばっていればいいというわけではないから、「社会人」として「働く」ということは難しいのです。

自分の生活を守るために自分がやりたいことを完遂するために、どうしても通らなければいけないこと、どうしても進めなければいけないこともたくさんあるのです。それが私たちの「仕事」、それが私たちの生きている「社会」なのです。ただ言われた通りに動くのではなく、必要だと感じたことは率先して行うこと、たとえそれが仕事の外だったとしても、必要なことは貪欲に片付けていくことが必要です。

私たちの生きている社会には割り切れることなどは案外少ないものです。自分たちに必要なこと、自分たちがもっと躍進するために必要なことはたとえそれが「無償」であったとしても、なんの得もしなかったとしても、それを行う必要があるということですそれはある意味自分次第、自己責任で行うことです。将来に対する「投資 」として、自分の未来のために行うものなのです。

いわゆるブラック企業と言われるような会社では、このような自分への投資のためにとごまかしながら、人に無償の労働を課すことが度々あります。それを本人が了承してしまえばそれまでです。「自分の意思」でそれを行ったものとして、明らかに「仕事」であるのにそれを無償で行わせるというのも、ブラック企業ならではの卑劣な手口なのです。