誰も仕事の世話などしてくれないということ
「仕事」をする、働くということは、私たちに課せられた生きる上での絶対条件です。たとえ経済的に見返りのない「家事」のような仕事も、それは自分が与えられた責任です。
現代はとてもリベラルな時代です。経済状態は好転しつつあるとはいえ芳しくはなく、だれでも望めば自分のしたい仕事ができるというわけではない状態なのです。そのような状態あって、自分の希望を貫くためには、そのようなことが許される自分である必要があります。仕事を変えたい、職場を変えたい、もっと希望が通るような仕事がしたいというのであれば、そのようなことが認められる「人材」なる必要があるのです。そのようなことが認められる人材というのがどういう存在なのかというと、「必要とされる人材」です。つまり、仕事ができる人です。
各企業も生き残りに必死です。世の中には限られた人口しかいません。そして、それぞれの人が限られた資産しか持っていません。そのようななかで「収益」をあげることは、「普通」ではいけないと誰も考えるのです。当たり前のこと、誰もが思いつくようなことだけをしていたのでは、何も始まらない、なにも産まれない、競合にも勝てないということを考えているのです。そして、「なにかをやる」、つまりビジネスとしてなにか行動を起こすためにはすべてにおいて「コスト」がかかるのです。人を雇って働かせること自体がコストです。そして人が処理できることには限りがあるもので、限度があるのです。
ただ、限度は人によって違うのです。人によって企画できること、処理できる量、その他多くのことに差があるのです。それは企業からみたら「個人の能力」ということになるのです。人を雇うということは個人の能力を買うということです。同じコストでも、人が違えば結果が違うということです。
だから、会社はどんな人でも雇うということをしないのです。選ぶのです。
転職したくてもなかなか決まらないという人は、その会社から必要だと思ってもらえなかったということです。その会社に必要とされるためには、自分が使える人間であるということを証明する、裏打ちする、「何か」が必要なのです。それはそれまで働いてきたなかで築き上げた実績だったり、世の中に残る功績だったり、それがないのであれば、持っている「資格」だったり、するのでしょう。
そのようなものを用意できずに、ただ「頑張ります」だけではどこの会社も雇ってくれるわけがないのです。それは自分次第のこと、自分にしか用意できないことです。誰かが世話をしてくれるようなことではありません。自分の能力、価値を正確に伝えることができるためには、実際にそのような力を持っていることも必要ですし、それが納得感を持って相手に伝わるようにする必要もあるのです。相手に伝えるための表現力は仕事でも必要とされる力です。
ブラック企業の手口一つとして、このような「実績」を得られないような環境を作ってしまうというものもあります。それは、人を「他には移れないようにする」手口でもあります。