ブラック業とは

「職場」に「居心地」を求めない

「仕事」によって対価を得るということは、社会の一員として「責任を果たす」ということです「責任」とは、ときには「重圧」になったり、「ストレス」として感じたりすることになるものです。

「ブラック企業」という言葉が一般に使われるようになって以降、働く人は少し自分が「ストレス」を感じたり、「重圧」に呑み込まれそうになったりしたときにその組織、「自分が所属している組織」に対して「ここはブラック企業だ」などと口にするようになってしまいました。それはそれほどまでに「ブラック企業」という言葉が一般的に用いられるようになったからでもありますが、あまりに安易に使用してしまう人が多いように感じます。

ここではあえて、「社会の厳しさ」というものについて触れたいと思います。

間違いないのは、現代は「仕事を見つけるのも大変な時代」だということです。生きるため、自立するためには絶対にお金が必要であり、それは自分で稼ぐことが大前提です。これが「社会」の根本、みんなが働いている目的でもあります。意味がなく働いているわけではありません。誰もが「生きるために」働いているのです。大人になるとわかるはずです。「やりたいことを仕事にするのはとても難しいことだ」ということが、です。

誰もがやりたいことを貫ける世の中というものは確かに理想かもしれません。ですがそのようなことをいっていると、「責任」は何なのか、誰もが好きなことができる世の中で、誰が何に対価を支払うのか、誰がどんな責任をとるのか、わからなくなります。「やりたいことはやらない」と誰もが考えてしまえば、「組織」そのものが成立しなくなるのではないでしょうか。だから人には「役割」があります。役割、つまりポジションがあるのです。誰も彼もが好きに振る舞える職場は、それは楽しいかもしれません。ですが、そこには組織としてのモラルも、責任を取る上司も、存在しないのではないでしょうか。そのような「会社」ばかりであれば、世の中は正常には機能しません。

仕事を行う「職場」には、必ずその責任をまっとうするための「モラル」や「マナー」があるものです。それは一個人の感覚では馴染まなかったり、ストレスとして感じたりすることもあるでしょう。ですが、「それ」によって組織として、企業として健全であるという事の方が、大きな視点では大切なことなのです。

なにかの不祥事が発生した時に責任を取ることができる「誰か」、そして組織を存続させるための人と人の連携というものを実現するためには、一個人の「居心地」は気にしていられないこともあるのです。

会社の「ポリシー」が、法令に違反しているものではなく、組織を守るためのものであるのであれば、それが個人に対して厳しいものであったとしても、「ブラック企業」とはいいません。何でもかんでもブラック企業と呼んでしまうことは不適切なのです。

それでは、「どこで見分けるのか」というと、それは「法令を遵守しているかどうか」ということになるでしょう。